ペテロはこれと同じ質問をイエスにしました。「主よ、私の兄弟が私に対して罪を犯しても、私は何度彼を許すことができるでしょうか。 七回までですか。”
ユダヤ教の伝統によると、律法の教師たちは、アモス1:3の誤った解釈に基づいて、人が他人を許すべき回数を3回に制限したと言います。
真実は、赦しとは回数を数えることではなく、心の姿勢の問題なのです。 ですから、私たちは信仰によって義と認められ、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和があります」(ローマ5:1)と、赦しとは単なる裁判行為ではなく、争いのあった場所に平和を回復することだと聖書は教えています。
イエスはペテロに、「七の七十倍まで」赦しなさいと言われました。 この数字自体が象徴的なものでしかないことは明らかである。
そこでイエスは、主の私たちへの対応と、私たちの仲間への対応を象徴するたとえ話をされました。 主人から借金を赦された一人の使用人の話です。 しかし、赦されたしもべが行って、別のしもべを監獄に入れた。2番目のしもべが最初のお金を所有しており、返すことができなかったからである。
主人はそれを聞いて、「この悪いしもべめ。 お前が私に懇願したから、私はその負債をすべて許したのだ。 私があなたを憐れんだように、あなたも同胞のしもべを憐れむべきであったのではないか」。 すると、その主人は怒って、支払うべきものをすべて支払うまで、彼を拷問者に引き渡した。 そして、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたも、もし一人一人が心から兄弟を赦さないなら、天の父もあなたがたにそうなさるでしょう」(32-35節)。
私たちは、同胞に対して利己主義や憎しみを示すのではなく、神の優しさによって、すべての人に愛と忍耐をもって対処するようになるはずです。