“私が何をしたからこうなったのか”? “これは私のせいなのか?”
苦難に直面したとき、多くの人はこのように自問自答するものです。 その一方で、次のような感想を口にする人もいます。 “私が何をしようと関係ない。神は私を許してくれるだろう。” “善人であれば、何を信じているかはどうでもいい” これらの質問はすべて、より根本的な問題を指し示しています:神は私たちの罪のために私たちを罰するのか?
罪に対する罰とは何か
「罪の報酬は死です」とローマ6章23節は私たちに教えています。 聖書は非常に明確で、罪を犯した者は永遠の罰を受けるのです。 神の聖さは焼き尽くす火のようなもので、不浄な者は神の前に立って生きることができません(ヘブル12:29、出エジプト33:20)。
しかし、神はまた、愛の神でもあります。
しかし、神は愛の神でもあります。 ローマ人への手紙6章23節に第二部があるのはこのためです。 「
神はイエスの上に罪の罰を注いでくださいました。 「主は私たち皆の不義を彼の上に置かれた」(イザヤ53:6)。 聖書は「もしあなたが口で『イエスは主である』と宣言し、神が死者の中から彼をよみがえらせたことを心で信じるなら、あなたは救われます」(ローマ10:9)と教えています。
ですから、キリストを主、救い主として受け入れる者には、もはや罪に対する罰はありません。
私たちが罪を犯すから、悪いことがまだ起こるのでしょうか
イエスによって私たちがすべての罪を赦されたとしたら、それは私たちがもう平気で罪を犯せるということでしょうか
そうではありません。 箴言3:11-12には「わが子よ、主の懲らしめを軽んじるな、その叱責に腹を立てるな。 私たちに起こる悪いことは、神の懲らしめの結果であることがあるという。 それは罪に対する報いや罰ではなく、親が子を正すような矯正なのです。
罪には社会的、地上的な結果もあります。
罪の社会的、地上的な結果もあります。神が殺人を赦してくださったからといって、殺人者が刑務所に入る必要がないわけではありません。 例えば、ギャンブルでお金を使い果たした後の経済的な苦難のように、誤った選択から自然に生まれる否定的な経験もあります。
私に起こるすべての悪いことは、神が私を「懲らしめる」ためなのでしょうか。
人々が苦しむ理由はいくつかありますが、それは懲らしめとは関係ありません。 神の栄光を示す
ヨハネ9章で、イエスと弟子たちは、生まれつき目の見えない男に出会います。 弟子たちはイエスに尋ねます。「この人とその両親と、だれが罪を犯したのか。 (ヨハネ9:2)
「この人も両親も罪を犯したのではない」とイエスは言われたが、「神のわざが彼のうちに示されるために、このようなことが起こったのだ」。 (
弟子たちは、人が経験するあらゆる苦しみは、告白され、償われていない罪の結果であるという、当時の一般的な思い込みのもとに行動していたのです。 イエスは別の理由をお示しになりました。
2.私たちを向上させ、神に近づける
時代が良いとき、神が私たちの住む世界そのものを支えているにもかかわらず、神の必要性を忘れがちになることがあります。
ですから、パウロは「そればかりか、私たちは自分の苦しみをも誇りとしています。
苦しみは、神に寄り添い、人格を向上させるので、時には間違った選択の結果ではなく、このような理由で苦しみます。
3.キリストに従った結果
ヨハネ15:18で、イエスは「もし世があなたを嫌うなら、最初に私を嫌ったことを心に留めなさい」と言っています。 クリスチャンは、信仰のために差別や迫害、死に直面することさえあります。 この場合、悪いことが起こるのは、クリスチャンが何か正しいことをしているからです。
パウロは、これらの苦しみを喜ぶように勧めています(ローマ5:3-4で述べたとおり)。
「私たちは、被造物全体が、今の時代に至るまで、産みの苦しみの中でうめいていることを知っています。 そればかりか、御霊の初穂を持つ私たち自身も、内心でうめきながら、息子への養子縁組、すなわち体の贖いを切に待ち望んでいるのです。” (ローマ8:22-23)
アダムとエバの原罪のために、創造そのものが壊されています。 自然災害、病気、飢饉、これらはすべて壊れた世界のために存在します。 これらの苦しみは、神の裁きであると考えるべきではない。
罪によって汚された世界に生きるもう一つの現実は、暴力、利己主義、不正などを通して、他人の罪によって苦しむことがあることです。
最後の罰
最終的に、すべての悪人は永遠の罰に投げ込まれますが(2テサロニケ1:9)、キリストを信じた人は永遠の命を受けます(マタイ25:46)。 その正義は本物です。 しかし、神の願いは私たちと一緒にいることです。 そのためにイエスをお与えになったのです。
そしてある日、「神は彼らの目からすべての涙を拭い去られる。 死も、悲しみも、叫びも、痛みも、もはや生じない。